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誕生日
1940年(昭和15年)7月20日、当時の高知県幡多郡富山村竹屋敷88番地の、ある家庭に男の子が生まれた。母は41歳での出産であった。上の子ども4人は女の子ばかりで、時の世は富国強兵の時代で父は肩身のせまい思いをしていたかも知れない。そんな時代だったから、初めての男の子の誕生に両親は喜んだであろう。
5歳の夏にいやな戦争が終わった。竹屋敷の空にも米軍の飛行機が飛んできて、夜は「灯火管制」ということで電灯の傘に覆いをして、光が家の外に漏れないようにしていたことを記憶している。終戦でそんな事や、何とな社会の空気が重苦しいのを、子ども心にも感じていたので、戦争が終わってほっとしたことを、今でも忘れることはできない。
1945年8月18日、今はなくなったが杉病院に入院していた母が50歳の若さでなくなった。末っ子の甘えん坊にとっては本当に悲しいできごとで、死を知らされてからしばらく涙がとまらなかった。
1956年(昭和31年)4月、幡多農業高校に進学した。家が貧しく育英会の奨学金を頼りにしていた。ところがすぐ上の姉が結核に長期入院が必要になり、結局、一学期、通学しただけで貧乏のために退学しなければならなくなった。これが人生二つ目のショックだった。父も一生懸命に働いていたが、なぜ、世の中には金持ちと貧乏人があるのだろうかと考えたものでした。
貧乏か抜け出したいと将来の人生に悩み、高知新聞の「人生相談」に投書し、掲載されたことを覚えている。
それから営林署の造林作業員、自衛隊員、生コン運転手と職業も変わった。大阪で働いていたが1972年2月9日、父が74歳で死亡し、特に財産のある家ではないが、生まれ故郷を捨てきることができず帰郷する、。今で言うUターンである。長女が小学一年に入学する年であった。
このつづきは機会があれば書いてみたいと思います。
というわけで、今日は○○回目の誕生日である。私の年代になると誕生日がきても嬉しくもなく、歳もとりたくないが、こればっかりはブレーキをかけることができない。足腰痛いところはあるが、まあまあ五体健全で人並みの暮らしができることに感謝している。
5歳の夏にいやな戦争が終わった。竹屋敷の空にも米軍の飛行機が飛んできて、夜は「灯火管制」ということで電灯の傘に覆いをして、光が家の外に漏れないようにしていたことを記憶している。終戦でそんな事や、何とな社会の空気が重苦しいのを、子ども心にも感じていたので、戦争が終わってほっとしたことを、今でも忘れることはできない。
1945年8月18日、今はなくなったが杉病院に入院していた母が50歳の若さでなくなった。末っ子の甘えん坊にとっては本当に悲しいできごとで、死を知らされてからしばらく涙がとまらなかった。
1956年(昭和31年)4月、幡多農業高校に進学した。家が貧しく育英会の奨学金を頼りにしていた。ところがすぐ上の姉が結核に長期入院が必要になり、結局、一学期、通学しただけで貧乏のために退学しなければならなくなった。これが人生二つ目のショックだった。父も一生懸命に働いていたが、なぜ、世の中には金持ちと貧乏人があるのだろうかと考えたものでした。
貧乏か抜け出したいと将来の人生に悩み、高知新聞の「人生相談」に投書し、掲載されたことを覚えている。
それから営林署の造林作業員、自衛隊員、生コン運転手と職業も変わった。大阪で働いていたが1972年2月9日、父が74歳で死亡し、特に財産のある家ではないが、生まれ故郷を捨てきることができず帰郷する、。今で言うUターンである。長女が小学一年に入学する年であった。
このつづきは機会があれば書いてみたいと思います。
というわけで、今日は○○回目の誕生日である。私の年代になると誕生日がきても嬉しくもなく、歳もとりたくないが、こればっかりはブレーキをかけることができない。足腰痛いところはあるが、まあまあ五体健全で人並みの暮らしができることに感謝している。
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おめでとう御座います♪
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お父さんのお歳を超えても、現役でいてくださいね。
お母さんはお歳も、時代も、これからというときにお亡くなりになって残念でしたね。
小さな子供を残してさぞ、お心残りでしたでしょう。